【たかが難聴、されど難聴】2) 難聴は気まぐれです

2) 難聴は気まぐれです。だれのせいでもないながら、誰かのところへやってきます。

自分を責めるな!...とは言わない。
だって、責めるでしょ、そりゃ。
9か月も自分の身体の中で育んできたんだもん。母の身体という世界の中で完結してきたんだもん。生まれつき普通じゃないところがあるって言われたら、母としては自分を責めてしまう。ちゃんと育ててあげられなかった、何かどこかでいけないことしちゃった、あの時転んだから、あの時ついひと口ワイン飲んじゃったから、あの時、あの時...。
親戚に誰も難聴者いないのに、どうしてこの子だけ?
知りたい。わかりたい。どうしてこの子でなきゃならなかったの???

....わかるよ、その気持ち。

わかるって、「分かる」と書く。=分けられる、ってこと。知ってました?
おいしいもの食べて舌が、体が喜ぶ・嬉しい。これは体験の未分化状態。これはおいしい、でも、こっちはおいしくない、そう分けられるのが「おいしいということが分かった」ということ。「おいしい」というファイルが、まだかなり空っぽながら、とりあえず作れた。そんな感じかもしれない。それからいろいろ食べてみて、さまざまな美味しさ/不味さの経験をして、「おいしい」ファイルにたくさんデータが蓄積されていく。そうこうしているうちに「おいしい」の意味もまたニュアンスが深まったり、更に分化してサブファイルができていったり、ひとつの経験に「おいしい」だけじゃないいろんなハッシュタグ(# 甘い、#塩加減がいい、 # シャキシャキしている、などなど)が付いていったり...。そうやって私たちは世界を少しずつ「分ける」ことを学び、世界を「分かって」いったと思う。

「どうしてこの子が!? → 私のせいだ!」という、産んだ者の気持ちとしてある意味自然な反応も、分けることで分かっていく部分がある。近くにいる人(特に共同制作者のあなた!)にはぜひそのプロセスを共有し、助けてあげてほしいところ。

まず、「前世の報い・罪・罰・祟り・憑き物」といった類の思考はすっぱり切り捨ててほしい。信じられないかもしれないけど、こういったカテゴリーの思考方法がまだ生きている地方、あるいは世代、というのはあるのです。お宮参りをするな、と言っているのではないの。どうぞどうぞこの子を授かってありがとうと感謝を捧げてきてください。でも、耳鼻科に行く代わりに祈祷師のところへ行く、検査を受ける代わりにおこもりをする、というのは別の話。もちろん信心・信仰は個人の自由。ただ、親としては(後述する)子育ての責任があるので、「前世の報い・罪・罰・祟り・憑き物」的思考をする人が周囲にいても、それに呑み込まれることなく、また、それを否定するバトルにエネルギーを使いすぎることもないよう、上手に「分けて」ください。

「わかりたい」という気持ちにはHOW? を問うこととWHY? を問うことが含まれると思う。同じ「因果」を考えるのでも、「前世の報い・罪・罰・祟り・憑き物」的思考にはその両方が混沌と入り混じっているのかもしれない。科学の進んだ現代では、HOW?に関してはある程度答えを得ることができるようになっています。たとえば、ウィルスがこうこうこうした作用をし、結果こうこうこうした疾患/障害がでました、と科学的に説明される。これはHOW? には確かに答えてくれる。こうこうこうしていれば避けられた可能性もあると聞けば知らなかった自分を責める。でも、正直なところ納得はできない。「なぜウチの子なの?」というWHY? は残ってしまうから。原因は遺伝子でした、つまり、双方の親が知らずに持っていたものが子に疾患/障害として出てしまったのですという場合ですら、「誰のせい?」と問われれば「親(とその親とその親と...)のせい」としか答えようがないにも関わらず、WHY? は残ってしまう。「なぜウチなの? なぜ隣の子でなくウチの子なの?」という、答えの出ない問いに苦しめられる。不条理です。容赦のない不条理です。

不条理だから答えは出ない。出ないんだけど理解したい。知りたい。そのどうしようもない気持ちは苦しい。でも苦しいからといって蓋をしてしまわないで。そこが難しいところ。
現代の知によって「分かる」ところを知ろうとする、たとえば医学的な原因究明、はとても大事。でもそれだけで「わかった」と自分を納得させて「私は我が子の難聴を冷静に受け入れることができた」と思い込まない方がいいと思う。
ま、それで大丈夫な人もいるのかもしれないけど、無理に蓋をしてしまうと、いつか発酵して溢れ出したり爆発したりしてしまうから。それよりも、不条理を不条理として一旦受け止めて、今はもっと大事なことがあるから仮に蓋をしておくけれど、受け入れがたい気持ちがあることは忘れないよ、少しずつ時間をかけて向き合って/付き合っていくよ、と自分に言っておくくらいな方が、長い目で見ると楽だと思う。うん。
そうやって、少しずつ、額面通りに受け取ってファイルを閉じるところと、納得はできないけどとりあえず受け止めておくところ、そういう部分を分けていって、分かっていくしかないんだね。

さて、先ほど「子育ての責任」ということを書きました。「責任」ということばは因果の因の中の不条理な部分を指す(「誰の罪だ?」「誰のせいだ?」)場合もあるけど、ここでは文字通り「責務を任される」こと。「これからどうする? 何をすればいい? 何をしなければならない?」に答えを見つけ、行動することととらえましょう。だって、子供は日々育っている。すごい勢いで。今すること/しないことが、子の将来のあり方をどんどん方向づけているんです、現在進行形で。つまり、これからの因果関係の因の種を蒔いている(何もしないことも因です)ということなのだから、責任重大なのであります。
親の責任については、
「4) 難聴はせっかちです。こちらが立ち直れる前に大事な決定を急かします」
「5)難聴はわがままです。医学と教育学、補聴機器に聴能訓練、すべて最高を求めます」の章でもじっくり考えたいと思います。

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