【たかが難聴、されど難聴】5) 難聴はわがままです

【たかが難聴、されど難聴】5) 難聴はわがままです。医学と教育、補聴器機に聴脳訓練、すべて最高を求めます。

健やかな成長のための最高の条件を整える・・・ それは難聴児に限らず、すべての子どもに望まれることです。聞こえる人の世界で生きていく難聴児さんの場合(たとえば家族が聞こえる人たちである場合)、そこに「最速に」という要素が加わることは、3)と4)でも述べました。脳の発達における「聴くことを学ぶことができる時期」に限りがあり、また学びには順番があるので、「聴く」ことを学ばずに音声言語(=聴くことば)を習得することは難しいからです。

では「最高」って何だ?ということですが、それは当然、聞こえる子どもたちの習得する「聴く」能力に最も近づきうる、ということになります。

さてここで要注意! 「聴く」能力は「聞こえ」とイコールではありません。
「閾値」「ダイナミックレンジ」「聞き取り」「弁別能」などに置き換えることもできません。これらはすべてひっくるめても「音を聞く」ための最低限の条件にすぎません。もっと大事なのは「聞こえてきた音を、社会的・心理的その他さまざまなコンテキストの中で的確に捉え自分史にも照らして意味理解する」こと。これはもう「耳」や聴覚刺激のレベルではありませんよね。

たとえば「なにそれ」と聞こえる音列を捉えたとしましょう。捉えた音を自分に関連付け、必要とあれば反応するためには、どんな状況で、誰が誰に、どのような意図を持って、どんなイントネーションと含みをもたせて発したことばなのかを瞬時に理解しなければなりません。ストレートな質問なのか(なーに、それ?)、あるいは驚嘆と羨望の炸裂なのか(ナニそれヤバくない?)、はたまた嫌味・拒否・人格否定にまで至るような吐き捨てられたことばなのか(なんだよ、うぜー!)を判断できる能力が問われるのです。「なにそれ」という音列を聞き取り、弁別できても、その発話の意図がわからなければ、生きて行く上では意味がない。それどころか、トラブルの原因に直結してしまいます。難聴児/難聴者は空気が読めないとしばしば言われますが、それはまさに、聞こえに神経を集中しすぎて、聞こえに集約できない「聴く」能力が健やかに育まれていないことの表れかもしれません。

そう。「聴く」能力は「聞こえ」には集約できない。でも「聞こえ」をすっとばして得られるものでもない。
だから「最高の」補聴器機が必要。「最高の」聴能訓練が必要。

ここでいう「補聴」と「聴能」は車の両輪。いい補聴ができていないと聴く能力は育たないし、聴く能力が育つ中で補聴もより正確にできるようになる。これが「訓練」あるいは「療育」の意味。
音楽に例えるとわかりやすいでしょうか。歌詞とメロディーだけわかればいいという人は商店街のスピーカーから流れる曲も楽しめるかもしれないけれど、音楽の豊かさを繊細に聞き分けることのできる人はより良い楽器や再生装置をより深く楽しめる可能性が高い。そして、良い楽器や良い再生装置にかかる良い音を聞いてきた人でなければ、繊細な耳が育っていないだろうということも想像できますよね。
ついでに言うなら、これが聴く能力の醍醐味だと思うのですが、更に上の、聴く能力がとても高くて音楽が大好きで、という人は、最高の再生装置でなくてもけっこう楽しめるのだそうです。え、それって矛盾じゃない?と思いますよね。でも、本当なんです。なぜなら、すでに最高の状態の完成形が頭の中に鳴り響いているから!

聞こえの話に戻せば、「なにそれ」という音列を聞き取る、これは補聴器や人工内耳が可能にしてくれる。「なにそれ」のニュアンスを読み取る、それは繊細さを持ち合わせるように育てられた聴く脳の領域。そして、人生経験を積み自分の内なる深い声も聴いてきたような、本当に人の話を聴ける人、人の心が読める人は、相手の目線や立ち居振る舞いを見ただけで、その人が心の中でつぶやく「なにそれ」を読み取れる、つまり「心で聴く」ことができるのかもしれません。

補聴器では調整のことをフィッティングといいますが、人工内耳ではマッピングといいます。どちらも、補聴という「音のお届け」をしてくれます。まず音が届き、音と生きる場の学びが積み重なって「聴く」能力を育ててくれる、それはまさに、音が意味となって子どもたちの心にマッピングされていくこと。子どもたちの脳に世界のいろんな関係性が地図として描かれていくこと。聞こえが脳にマッピングをし、脳の機能が作られていくこと(脳の可塑性といいます)。神田幸彦先生に教えていただいだことばで言うなら、補聴は脳のマッピング。マップが緻密になることで、補聴もまたより良く脳に寄り添うことができる。
だから、どうしたって「最高」でなければ!

ん!?
「最高」の物差し?
何をもって「最高」というのか?
聞こえる子どもたちの聴く能力を「1」とします。ベンチマークは健聴児の言語力と言語思考力。つまり、個人差は個人差として、「聞こえにくさ」を遅れの言い訳としないこと。唯一、遅れの原因は発見・補聴・介入までの時間のロスであること(それも限りなく小さくしていくことが大事なのは言うまでもありません)。医学的に聞こえにくさを克服できないお子さんの場合は、すみやかに聞こえに代わる「聴く能力」開発モードに移行し(「眼で聴く」ことも含めて)、脳の可塑性を十分に生かして療育すること。
繰り返しますが、「聞こえにくさ」を遅れの言い訳としないこと!!!
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